小説「味噌汁の味」(30)

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「お父さんは、もう起きてるんですか」
「ああ、もうとっくに。散歩に出かけなすったよ。年寄りの朝は、早いでねえ」
「そうですか。元気ですねえ」
「それだけがとりえだでねえ。ほれ、あんたも顔洗ってらっしゃい」オフクロは、いつまでもオフクロのようである。
 庭に出ると、浩輔と恵美子が井戸水で顔を洗っていた。
「ちょっと、もう少し静かに洗ってよ」
「何だよ、別に普通に洗ってるだけだろ」
「思い切りこっちに水がかかってるわよ。服が濡れちゃうでしょ」
「大丈夫だよ、少しぐらい」
「気をつけてよね、着替え、これしかないんだから」
「じゃあ脱いでおけばいいだろ」
「何言ってんのよ、スケベ!」
 ケンカしているようで、実はそうでもない。何となく、二人が小さい頃の姿が、オレの頭に浮かんできた。
「あ、お父さん。ちょっと来てよ。お兄ちゃん、わざと水かけてくるのよ」
「何だよ、言いつけんなよなあ」
「まあまあ、そうケンカするな」久しぶりにオレは、お父さんになった気分である。「それより、井戸水は冷たいだろ」
「うん、冷たい。気持ちいい」
「オヤジも汲んでやろうか」
「ああ、頼むよ」
 浩輔が、井戸の取っ手を上下して、水があふれてくる。その水を、オレは両手で受け止め、顔を洗う。わずかに口の中へ流れ込んでくる水の味が、今度はオレ自身の子どもの頃を思い出させてくれる。
「毎朝、この井戸水で顔を洗ってたなあ」
「へえ、そうなんだ」
「お父さんが子どもの頃?」
「そうそう。おまえたちぐらいになる頃まで、ずっと洗ってたよ」
「すげえなあ。じゃあこの井戸、オヤジが小さい頃からあるってことだよな?」
「ああ。もっと昔からあったらしいぞ」
「じいちゃんが小さい頃もあったのかな」
「あったみたいだぞ。ウチはずっと、ここに住んでるからな」
「じゃあ、親子三代が、この井戸水で顔を洗ったってことになるのね」
「ああ、そうだ。そういうことだ」
「なんか、嬉しい」
「うん、なんか」
「そうだな。父さんも、嬉しいよ」
 三人が変わりばんこにタオルで拭いていると、例によってデカいオフクロの声が響いてきた。
「ごはんだでー。じいさんも帰ってきたからー」(31へ続く)

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