【雑感】体罰を、公開処刑と言い換える。

ゆでたまごのすけでございます。

大阪の市立高校での体罰事件、
世の中を賑わせておりますね。
ハシシタさんも、便乗してる感じですが。
昨日、食事に出かけた近所の中華料理店で、
先生たちの団体3名様が近くの席におられましたが、
「スポーツの指導で『君たち、わかったかな?』
なんて指導してたら、やってられないよな」
なんて発言が聞こえてきましたが、
言わんとすることはわからんではないですが、
何となく、先生たちの意識の低さのようなものを、
垣間みたような気がしてならないのは私だけでしょうか。

こんな記事がありました。

Facebookでもシェアさせてもらいましたけど。

この記事で提起されているのは、二つの問題だと思います。

一つは、「体罰」という言葉を使うことで、
情報を操作しようとしている教育委員会の姿勢の問題。
「体罰」を「公開処刑」という言葉に置き換えると、
この問題の本質がよく見えてくる、という問題提起は、
事実をあぶり出すにはとても効果的だと共感しました。

「孫子の兵法」は、
応用の仕方で指導にも有効なものだ、と私は思っています。
先日もNHKの「Family History」で、
俳優の高橋克典さんのお父様が音楽教師でいらして、
顧問を務めた音楽部の指導に著名な指揮者を呼び、
その指揮者の方が子どもたちではなく、
お父様の指揮の方法に問題があると指導をして、
その指導を必死に受け止めて実践しようとする
お父様の姿に生徒たちは「自分たちもがんばらねば」と、
思って練習を必死にするようになった、
なんてエピソードが語られておりましたが、
チームのモチベーションを上げるためには、
リーダーを厳しく指導することが必要なのは、
よくあるケースではないかと思うのでございます。

問題は、それを実践する側がどんな意識で、
その実践に臨んでいるか、ということではないかと。

そしてもう一つの問題は、ジャーナリズムの問題です。
記事にも指摘がある通り、
教育委員会が発表した「体罰があった」というペーパーを
鵜呑みにして記事にして報道する、
というジャーナリズムの怠慢は、大いなる問題でしょう。
報道には初期報道と調査報道がある、
ということはかねてから言われていることですが、
もちろん調査報道の段階でちゃんと検証した記事もある、とは思います。
全部の報道をチェックしているわけではありませんので。
しかしながら、初期報道の段階でも、
記者自身にその事実を多面的に見る視点が備わっていれば、
単純に配布されたペーパーに書かれたことを、
そのまま記事にしていいかどうか、ということは、
考えられるのではないだろうか、と思うのでございます。

いずれにしろ、私たちは、
世の中に流通するさまざまな報道や情報について、
そこで言われていることを「あ、そうなんだ」と、
そのまま受け入れるだけでは、
事実誤認をしてしまうことが大いにある、
ということを肝に銘じながら、
情報に触れていくという意識を持たねばならない、
と思うのですが、いかがでしょうか。

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コメント

竹ジュン さんのコメント…
Twitterから来ました。(@takejun0901)

指導と体罰の線引きは非常に難しい物だと今回の事件報道を受け日々考えてます。

顧問を徹底的に責める意見もあればOB達には擁護する人もいて…

指導する側、される側との意識格差があまりにも開き過ぎていた事で起きた事件だとは思うのですが報道を見ていると手を出した顧問が完全に悪で、どんな時にも絶対に手を出したらいけないと言う風潮になりつつあります。

私も高校時代空手部に所属しており多少の指導は受けましたがなぜ怒られているかを示してくれましたし自分でも理解できたので苦しい時もありましたがそれを昇華することが出来た経験があります。

事件の本質はなぜこの指導者と生徒で意識格差がついてしまったかと言う事であって、体罰をしたことではないように思います。

※でも決して体罰賛成派ではないです
多賀大祐 さんの投稿…
>竹ジュンさん

コメントありがとうございます!

単純に体罰がいい悪いとか、
その先生がいい悪いとか、
そういう次元で話を進めたがるのは、
マスコミの悪い癖だと思います。
その報道を受けて、どう考えるか、
を受け手側の一人ひとりがちゃんとやる、
ということが大事だと思います。
問題の本質は、
生徒との信頼関係がどう構築されているか、
ということではないかと思いますね。

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