小説「味噌汁の味」(6)

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「あ」俺は、うめき声とも叫び声ともつかぬ音を発する。予測のつかない事態に直面すると、人間というものは何一つ行動ができなくなる。まるで走る車の前に飛び出してしまって、身動きの取れなくなってしまった猫のようなものだ。
 恵美子はきっと声を上げて、怒ってくるだろう。そんな俺の予測とは裏腹に、恵美子は声を上げずに肩を揺らせながらめそめそと泣き出してしまった。
「す、すまん」俺はテーブルの上を見渡しながら言った。「おい、ふきんはないか、ふきんは」
「ちょっと、どうしたのよ」聡美は椅子から落ちて泣いている恵美子のもとへ駆け寄ってくる。「あらあら、ソースで真っ黒」
「何だなんだ」騒ぎを聞きつけ、好奇の声を上げて浩輔が階段をどたどた、と降りてくる。「何だよ恵美子、オヤジに泣かされたのか」
「ひ、人聞きの悪いこと言うな」必死に威厳を保とうとする俺の声は上ずっている。「不可抗力だ」
「ちょっとあなた、恵美子に謝って下さいよ」
「お、俺は謝ったぞ。なあ、恵美子」
 恵美子はショックだったのか、肩を揺らしながら泣くことを止めない。
「謝れよ、オヤジ」ここぞとばかりに、という意図がはっきりとした嫌味な口調で浩輔が言う。「いつもオヤジ、言ってたじゃんか、悪い時は素直に謝れって」
「だから謝ったと言ってるだろう」俺もだんだん意地になってきた。「だいたいソースがこぼれたぐらいで、そんなに泣くことはないだろう。制服だって、替えがあるだろうが」
「あ」恵美子の服をふきんで拭いていた聡美が、短く声を上げてしりもちをついた。恵美子が聡美を突き飛ばし、ソースに汚れた服のまま二階へ走って駆け上がってしまったからだ。
「ちょっと恵美子、汚れた服、着替えてちょうだいよ」聡美は体を起こし、二階へ向かって叫んでみる。「聞いてるのかしら、あの子」
「母ちゃん、腹減った。先に食べてもいいかな」大きなため息をつき、騒ぎにすっかり関心をなくしたかのように、浩輔がテーブルに向かって座って箸を取る。
「ああ、食べてちょうだい。片付かないから」聡美もまた、ため息をつく。「お父さんがいると、どうしてこうなっちゃうんだろうねえ」
 俺がいると、こうなる。俺がいないと、こうならない。
 確かにそうだった。たまに俺が早く帰ってみると、聡美と喧嘩をしてみたり、子供たちを叱ってみたり。それも大したことでもないのに、騒ぎを大きくするのは常に俺だったような気がする。それも明らかに、仕事がうまくいっていない時に限ってのことだった。うまくいっている時は、調子に乗って終電近くまで働いていたし、うまくいっていない時にはさっさと家に帰ってくることが多かったから。
 テーブルでは、いろんな考えが頭をめぐる俺のことは放っておいて、聡美と浩輔が物も言わずに黙々と飯を食っている。こぼれたソース瓶には、新しいブルドッグソースがなみなみとつがれて、テーブルの中央に鎮座増していた。
「ちょっと、二階に行ってくる」
「放っておいた方がいいですよ」
「どうしてだ」
「そういう年頃なんですよ」
 そういうって、どういう年頃だ。そう思いながら、俺は聡美の言葉に振り向きもせず、二階へ上がる。これ以上、俺も逃げてはいられまい。(7へ続く)

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